音楽に才能は関係あるのでしょうか?
僕はいつもこの問いに対して答えを探してきました。

これは何にでも当てはまる問いだと思います。
スポーツには?文学には?将棋には?

将棋の羽生善治さんはこうおっしゃっています。


『産まれた時に多少の知能の違いはあると思います。しかし、私の場合は後天的なもの、つまり将棋が大好きで努力した事。それが一番大きかったと思います。』
『天才って分かりやすい言葉じゃないですか?秀才って言うより天才って言った方が派手だし分かりやすい。ただそれだけだと思います。』

目次

  1. 産まれながらに人間が持つ才能。
  2. 育つ環境
  3. 天才とは
  4. 天才を売る
  5. 自然と音楽
  6. まとめ

産まれながらに人間が持つ才能。

人は全く同じ条件で産まれてくるわけではありません。
同じ赤ちゃんでも、元気な子もいれば病気を抱えて産まれてくる子もいます。
五体不満足で産まれてくる子もいます。
人見知りな子や、よく笑う子、身体の大きな子や、小さな子、脳に障害を抱えて産まれてくる子もいます。

身体にトラブルを抱えて産まれてきた子は、スポーツなど身体的充実を必要とする分野では不利になるでしょう。
脳に障害を抱えて産まれてきた子は、高い知性を必要とする分野では不利になります。

もちろん、パラリンピックなど特殊なスポーツ分野や、ある特定の分野に特化して知能を高めることに長けた脳障害などの話は、今回は省かせていただきます。

産まれながらに、ある分野で不利な状況を強いられるということは十分起こると思います。
しかし、逆に、産まれながらにある分野において、他人より秀でた才能を持って産まれてくる子がいるのでしょうか?

僕は、そんな子はいないと考えています。

育つ環境

先天的な差より後天的な差が大きいと思うのですが、もっとも初期に起こる違いが両親の教育姿勢です。

ここでの教育とは、勉強の話だけではなく、生活環境・お金の使い方・家族構成など多くの意味を含んでいます。

精神科などの分野では、両親のことがまず問題になります。
問診票などの、極々初期の質問にまで、両親の情報を書かせるぐらいです。

それだけ、子供にとって両親は影響力のある存在ですし、人格形成や能力を高める為には、両親のサポートが必要なのです。
また、両親が離婚や死別で片親だったりすると、子供の性格や可能性にも影響を与えるでしょう。

スポーツが大好きな子でも、両親が勉強ばかり強いる人だったら能力を伸ばす事は出来ません。
天文学に興味がある子でも、本を全く買ってくれない両親では、知識を深めることは出来ません。

将棋がいくら好きでも、将棋を絶対に指させない親なら羽生善治さんはプロ棋士にはなっていないでしょう。 

これは全て両親のせいだという話ではありません。まず起こる後天的な能力の開発に重要な影響を持つという話です。

天才とは

ここまでの話をまとめて行くと、天才って本当に存在するのか?と疑問に思ってきます。

釈迦の様に『天上天下唯我独尊!』と産まれた瞬間に叫んだり、ヘラクレスの様に生後数ヶ月で大蛇を2匹絞め殺したり。
そんな特殊な人間などまずいないのです。

多くの人間が、ほとんど同じ条件で産まれ、両親の教育によって性格や得意分野などが決まってきます。
そして、その性格や得意分野を伸ばす努力をするかしないかという話になります。

イチロー、中田英寿、草間彌生、藤井聡太、羽生結弦、久保建英、村上春樹、現代には数え切れないほどの天才と呼ばれる人が存在します。
実際に、この人達は素晴らしい活躍をしていますし、それぞれの分野で高い実績や能力を発揮している人達です。

しかし、この人達を単純に天才と呼ぶべきなのでしょうか?

例えば、イチローは体が小さく、けっして恵まれた体型で産まれたとは言えません。
ご両親が、特にお父さんが、イチローが子供の時から熱心に野球を教えていたのは有名な話です。
また、イチローは、最先端科学を用いたトレーニングを自宅でも行っています。
奥さんは、イチローの為に健康管理のサポートをしていたのも有名な話です。

イチローは天才ではないのです。

野球を好きになり、サポートしてくれる環境があり、努力した。
これがイチローなのです。

天才を売る

スポーツは点数や順位で成果が分かりやすいですが、音楽は実に分かりにくい分野です。
音楽は好みですから、誰が誰より秀でていると簡単に言えないのが現実です。

しかし、音楽界にも天才と呼ばれる人はたくさんいます。

はっきり言いますが、それはお金を集めるための幻想です。
レコード会社や、メディアが創り出した幻想です。

そもそも人の好みは人それぞれ違う訳ですから、多くの人に愛されている音楽家は逆に凡人だと言えます。
多くの人に共感されているわけですから、特別な存在ではないのです。
同じ好みを持っている人間が、周りにたくさんいたら気持ち悪いですよね。

では、人と全く違う感覚を持っている音楽家が天才か?と言われるとそれも違います。
音楽は、根本的に共感を孕んでいるモノですから、全く共感されない音楽家は音楽が分かっていないと言わざるおえません。

大多数の人間に共感される音楽はつまらない音楽と言えますし、ほとんど共感されない音楽は音楽の本質からズレているのです。

つまり、音楽とは、多種多様の表現があり、突出した流行りの無い状態が最も理想的だと言えます。

自然と音楽

森に行くと落ち着きます。
大自然に触れると人はストレスが軽減され、病気になりにくいと科学的にも証明されています。

森に自生している木々に優劣はありません。
花も木も雑草も、同じ条件で同じ立場で同じ環境で生きています。
その中で、力を合わせたり切磋琢磨したりしながら生きているのです。

桜が特別だと言うのは、人間の勝手な好みです。
雑草を刈り取り、樹齢数千年の木を保護するのは人間の勝手な判断です。

僕は、音楽も全く同じだと考えています。

どんなジャンルもミュージシャンも、優劣をつけて考えては交わりも発展もありません。
みんな同じ条件で同じ立場で同じ環境で音楽をやるべきです。
その中で、協力したり触発し合う事で喜びが生まれます。

そんな音楽を聴くことで、リスナーは幸福になりストレスが軽減され喜びに満ちた人生を感じるのではないでしょうか?

まとめ

音楽に才能は関係あるのでしょうか?
僕はいつもこの問いに対して答えを探してきました。

今ならはっきり言えることがあります。
世の中に溢れている才能という言葉は、ほとんどがメディアが創り出した幻想です。

そして、その幻想に惑わされて、音楽を素直に楽しめない環境が生まれています。
プロの音楽家の中にも、この幻想は深く影響を与えています。

音楽は分からないという方がたまにいますが、分からないなんて無いのです。
才能や天才が多く語られるから、分からないと思ってしまっているだけなのです。
感じるとこは誰にでもできます。

天才とか才能とか、音楽には関係させるべきでは無いのです。
誰もが自由に音楽を感じる。教養ではなく喜びとして。

僕は、そんな世界になる事を祈っています。 

中嶌真平